クリント・イーストウッドは俳優としてはもちろん素晴らしい俳優ですが、なんといっても映画を作らせたら、本当に心に残る、深い映画を作るんです。
「グラン・トリノ」は2008年に公開されたアメリカ映画です。クリント・イーストウッドが主演、監督、プロデューサーを務め、日本では2009年に公開されています。
題名になっているグラン・トリノは車種名です。
アメリカの自動車メーカーのフォードが作った車フォード・トリノのうち、1972~1976年に生産されたものがグラン・トリノです。
クリント・イーストウッドが演じるのはウォルト・コワルスキー。50年もの間フォードで自動車工をしてきた老人です。みんなが憧れる車グラン・トリノを所有しています。
この老人ウォルト・コワルスキーと、隣家の少年タオとの物語、それが「グラン・トリノ」なのです。
舞台はデトロイト。かつて、そこはアメリカの自動車産業の中心的場所でした。
日本車の進出がアメリカの自動車産業を脅かしていく時代の話で、デトロイトに大量のイエロー(黄色人種)が住むようになり、コワルスキーの隣家もイエローのモン族の一家でした。(モン族とは、中国、タイ、ラオスの山岳地帯に住む民族)
少年タオは同じモン族のチンピラにそそのかされて、隣のコワルスキーが所有するグラン・トリノを狙って忍び込みます。ところが、コワルスキーに見つかってしまい、銃で脅され、タオは逃げ出します。
コワルスキーはグラン・トリノを心から大切にしていました。玄関先にアメリカの国旗をいつも掲げているコワルスキーにとって、グラン・トリノはアメリカの誇、アメリカ自動車産業の誇だったのでしょう。
車を盗むことに失敗したタオに焼きを入れるためにチンピラたちがタオ一家を襲ってきた時、騒ぎを聞きつけたコワルスキーが銃で追い払います。タオを救ったコワルスキーに、隣家の人たちが食べ物や植物をお礼にといって大量に届けますが、コワルスキーは迷惑だと言って断るのです。
後日、タオの姉が黒人の不良に襲われそうになっているところに偶然コワルスキーが通りかかり、内ポケットに入っている銃を不良たちに向け、タオの姉を助け出します。車の中でタオの姉と話をしたコワルスキーは、この子は悪い子ではないと感じます。
そして、向かいの家の老婆を手伝うタオを見かけ、タオも悪い子ではないと確信するのです。
コワルスキーは頑固で、実の子どもたちにも孫たちにも好かれていません。子どもたちはコワルスキーを施設に入れようと説得しますが、追い出されます。
自分の親族とはどこかすれ違いで、うまくいかないコワルスキー。
タオの姉に隣家のパーティに誘われ、モン族の人たちと交流するにつれ、コワルスキーは少しずつ変わっていきます。
人種差別的な愛国者だったコワルスキーが隣家のモン族と関わることによって、人間として変化していくのがこの映画のポイントの一つです。
「どうにもならん身内より、ここの連中の方が身近に思える。まったく情けない」
モン族の人たちが特別温かいかというと、そうも思えません。コワルスキーの冷えた家族関係がむしろ特別なのではないでしょうか。普通の家族愛に触れ、自身の今までの家族への接し方がどうであったのか、父親として自分は何が足りなかったのか、コワルスキーは初めて気づかされたのかもしれません。
車を盗もうとしたタオは、その償いのためにコワルスキーの元で働くことに。コワルスキーの指示の元でタオは近所の家の屋根を直したり、壁を直したり、一生懸命働きます。
コワルスキーはタオと接するうちに、仕事の世話をしてあげたり、男とはどうあるべきかを教えたり、父親的役割を果たしているように感じました。
実の子とも同じような関係性で接していたら、大人になった実の子たちとの距離ももっと近かったのではないか。もっと良い父親として子どもたちにも慕われ、尊敬されていたのではないでしょうか。
恐らく妻が生きている間は、子育ては妻に任せっきりで、子どもたちにとってのコワルスキーは父親としての存在感が薄かったのではないかと想像されます。
タオに対してはよく世話を焼くコワルスキー。タオをいじめた奴らに復讐したり、人との付き合い方や人生を教えたり、そうやって積極的に関わっていっているところは、老人になり、妻を失い独りぼっちになり、病に侵され、死を目の前にしたコワルスキーが「生」というものに真剣に向き合うようになったからなのかもしれません。
タオをいじめたチンピラにコワルスキーが復讐したことで、チンピラはタオの家を銃撃、タオの姉に暴行を加えます。
コワルスキーは自責の念にかられ、怒りに我を忘れます。
風呂に入り、散髪し、ひげをそってもらい、スーツを新調したコワルスキーは教会に行き懺悔をします。
コワルスキーが復讐を心に誓っていることを神父は見抜いていました。
「心に安らぎを」という神父に対し、「私の心は安らいでいる」と返すコワルスキー。
復讐に行こうとするタオに、コワルスキーは自身が戦争でもらった勲章をプレゼントします。その後、コワルスキーはタオを地下室に閉じ込め、自らがタオの代わりに復讐に出かけるのです。
この映画の背景的要素に朝鮮戦争があります。主人公がかつて朝鮮戦争で多くの死を見てきたこと。自分自身も人を殺したこと。この経験がコワルスキーの心をずっと支配してきたのです。
タオにはそんな罪を背負わせることはできない。
コワルスキーにとってタオは友人であったのです。戦死した友人とタオを重ねていたのでしょう。
「俺の手は血で汚れている。だから今夜は一人で行く。・・・お前の人生は今から。俺は関わったことに決着をつける。それも一人でな」
将来のあるタオに罪を犯させず、死にゆく自分が始末をつけ、全てを背負う。そんな覚悟で、チンピラのスモーキーの家に向かうコワルスキー。
タオのこれからの人生を守るためにはチンピラとの縁を切らなくてはならない。その最善の策が、チンピラにコワルスキーを殺させること。それも多くの目撃者のいる前で。
チンピラは丸腰のコワルスキーを射殺した罪で逮捕。長い刑罰を受けることになり、タオはチンピラから解放されたのでした。
コワルスキーが残した遺言書の最後には、グラン・トリノはタオに譲ると書かれていました。
コワルスキーが愛した名車グラン・トリノに、コワルスキーの愛犬を乗せてタオが海沿いを運転していきます。
勲章も愛車も愛犬もタオが全て受け継いだわけです。
コワルスキーは自分の人生の最後にタオを自分のすべてをかけて守り、そして託した。きっとコワルスキーにとっての幸せであったのでしょう。
物語の最後は穏やかな海がきれいに輝き、タオの人生が明るいものであろうことを予感させます。
生きるとは何だろう。死ぬとは何だろう。そんなことを考えさせられる、深い映画だと思います。
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